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年越し蕎麦には特別な思い入れはありません。
いかなる事情であったか、思い出せないのですが、カップめんのどんべえで年越しとしたことがあります。
年越し蕎麦にこだわっているのやら、無頓着なのやら。

大分県宇佐市で過ごした子供の頃の記憶では、茹で麺に鶏の細切れ(カシワと呼んでいた)を入れた薄い醤油味でした。
細かい鶏の脂が浮かんで、それを箸の先でつつくと、油滴がくっついて大きくなる。無心にそれを繰り返していると、おやじから行儀が悪いと叱られて、あわてて食べた記憶。

蕎麦を自分から食べるようになったのは、大学生になり、初めて東京に出てきてからです。下宿先のおばあさんが、時々、電球の取替えやテレビアンテナのゆがみなど、用事を言いつけるたびに300円をくれました。
そして、必ず、長寿庵でおそばでも食べて頂戴。というのです。
ラーメンが200円で、都営バスが70円だった時代です。
ぼくは、おばあさんの指示通り、おそばを食べて、ご馳走様でした、と報告して自分の部屋に戻るのでした。

会社員勤めをするようになり、小倉で飲み歩き、最後に旦賀橋ラーメンか丸亀うどんか、それとも割子蕎麦か、という選択肢のなかで、割合によく蕎麦を食べていました。
蕎麦が大好きという今日に至るまでには、東銀座の歌舞伎そばに通い詰める経験や浅草雷門の薮そばをつゆをちょっとしたつけずに、まるで小さんの芸のようにして手繰ったり、上田市の刀屋で10センチ近くも盛り上げられた蕎麦を退治する必要がありましたが、ここでは年越し蕎麦ですから、話を戻します。

12歳の頃に弟が生まれましたので、母親の入院中に簡単な朝食の支度などの料理とも言えないようなことをするようになっていました。
豚肉入りSBホンコンやきそば、もやしたっぷりのマルタイ棒ラーメン、ハムエッグとトースト。
今でも、マルタイ棒ラーメンだけは切らさずにストックしています。
これよりも旨いラーメンはない、と言い切れます。ぼくにとっては。

また、台所仕事をする母親の手付きを見るのが幼い頃から好きでしたから、中学に入るとすぐに年越し蕎麦は長男の仕事、と自分で勝手に決めてしまいました。
葱は庭にある緑色の濃い中細です。
今でも薄い醤油色のつゆに浮かぶ鶏の脂の透明な輪を箸でつついてくっつけたりして、遊んでしまいます。

小倉と大分、宮崎を結ぶ国道10号線沿いにポッポ茶屋というドライブインがあり、そこのカシワ蕎麦は当時の味を維持したまま20世紀の終わりまでがんばっていたのですが、いつのまにか、コーヒーとサンドイッチの喫茶店になってしまいました。

残念ですが、時代の流れです。


きっと、鴨南蛮がことのほか好きなのはそのころの思い出に近い食品だからでしょう。

今、ぼくは次のようにカシワ蕎麦を作ります。
鶏モモ肉(硬い物の方がいい、なぜなら細かく切って水から茹でるので出汁がよく出る)、笹身(昔はそんな贅沢は出来なかったのだが、今はできるからするんです。
出汁が出てから、大き目のぶつ切りにして2分くらい煮る)。
博多葱を刻んで、白いところは笹身と同じタイミングで、青いところは火を止める寸前に入れる。
蕎麦は細めの乾麺がいい。
太打ちの何割蕎麦とか、国産○○使用とか、打ち立て生蕎麦なんていうのは、蕎麦の味がしすぎてうまくない。
ここは重要なポイントなのだが、かの内田百關謳カも言っておられるように、旨すぎるとまずいのである。
そして、ぼそぼそしているからそうめんではないんだよなー、という乾麺を茹でて、水洗いし、もういちど湯通ししてからカシワの蕎麦つゆをかけるのがぼくの流儀。
薬味は七味。

旨いものとはいえないが、自分にとってはたまらなく懐かしい食べ物です。


年越し蕎麦

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