鍋のある食卓

第一話 

話は唐突に鍋のことから始まる
そして長年連れ添った安い土鍋について語り始めた


食べ物を囲んで、お互いに分け合ったり取り合ったり、こういう食事が好きです。

囲んで分け合うだけなら、鍋ではなく、七輪と餅焼き網でするめをあぶっても、おいしいし、ホットプレートで肉を焼いてもも楽しいのですが、私はことのほか土鍋をかわいがっています。



すでに妖怪変化となった土鍋
デジタル写真でも妖気が感じられる容器である


土鍋とぼくの長くて熱いつきあいその他

 


ぼくは10月に入るとすぐに、「鍋開きの儀」をとり行います。

なあに、それほど大したモンじゃあありません。
近所のスーパーで、この日だけは値札を見ずに材料を調達するっていうことです。
最初っからでかい口を叩きましたが、もともと縁がないと思っている松茸なんて、値札どころか、品物自体も見ませんから、大丈夫なんです。

主役は20年間連れ添った土鍋ですが、重要な脇役は、故郷大分県宇佐市の、実家から送ってくる庭でとれた香母酢(カボス)です。

購入したのは20台後半の独身時代。

独身男が土鍋を持つに至ったきっかけは、遠方から友達がアパートに泊まりに来るというので、冬ということでもあるし鍋でもつつくのもいいかなあ、という安易なものでした。
レストランで分厚いステーキとか、海老が何本も入る天麩羅コース、なんていうものに一寸食傷し、ご飯と白菜のお新香プラス焼き海苔、なんていう素朴な味に多少目覚めた頃でした。

川崎市中原区、JR武蔵新城駅前の西友。
山のように積まれていた土鍋の一つでした。

安かったから購入したことは間違いない。
多分そのとき一回しか使わなかったと思う。
独身男が、一人でアパートでしょっちゅうテレビ観ながら鍋をやったりしたら、それこそ、悲惨です。

数年後に、縁あって今のかみさんと一緒になるとき、「土鍋は荷物になるから捨てていこうか」、とさえ思いました。

ところが、この土鍋は処分の危機を乗り切って、壊れることも捨てられることもなく、それどころか家族の団欒の中央でふつふつとモノを煮る経験を重ねるにつれ、妙に風格が出てきたんです。 

昨年は、食卓に少なくとも(30×2回=)60回は登場している。

×2回というのは、鍋の翌日は雑炊かうどんだからです。
冬の間は出ずっぱりといってもよい。

それだけ使い込めば、どんなものでも風格が出てきます。

最近、出張が多くて、平日は家に居ないことが多くなってきたのですが、ぼくよりもこの土鍋のほうが、子供たちには親近感があるんじゃあないか、なんていう変な嫉妬を感じることもあります。
ぼくの出張中に家人が他人とこの土鍋を囲んだら・・・それは不貞行為!、といえるくらいに、この土鍋は存在感を持ってきています。

長年使っている家財道具には精霊が宿って、百鬼夜行するということを子供のころに水木しげるの漫画でしりましたが、、この土鍋にも最近特別な気配のようなものを感じることがあります。
戯れに、「オイオイ、そろそろ壊れちゃってもいいんだよ、型あるものはいつかは滅びるから美しいのですよ」といいきかせているのですが、びくともしない。
底にヒギが入っていたはずなのに、いつの間にか漏らなくなっている。

妖怪か? こいつ。

確かに、この土鍋にはいい思いをさせてきたから妖怪変化してもおかしくはないなあ。



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